「疑いをかけられる中で」 05.11.06
使徒言行録9:23〜31
劇的な仕方で主イエスと出会い、クリスチャンとなったサウロは、
大変熱心に主イエスが救い主であると宣べ伝え始めました。
そのサウロが、エルサレムに来て、弟子たちの仲間になろうと
しました。これは、ただ仲間になるというよりも、エルサレムの
教会に連なり、教会員になることです。
キリスト教信仰は、個人の信仰だけでなく、教会に属する
ことを必要とします。それによって、真にクリスチャンとしての
歩みが始まります。サウロの行動を通して、聖書はそのような
道筋を示しています。
クリスチャンが、教会に属することが必要なのは、個人の
信仰はもろく、頼りないものだからです。どんなに劇的な経験を
したとしても、個人の信仰は揺れ動きます。そんな頼りなさを
ご存知の神さまは、教会をおたてになり、そこに人が属することを
お求めになります。
旧約でイスラエル民族を選び、新約で教会をおたてになった
神さまです。その神さまは、信仰共同体に連なっているかどうかを
重んじる神さまです。人の救いは、ここにかかっています。
従って、自分の信仰が弱い、未熟だと、不安に思う必要は
ありません。
信仰を個人のこととして考えるならば、不安になるでしょう。
けれども、たとえ私たちが認知症になって、神さまが分からな
なったとしても、なおキリストの体である教会に属しているのであり、
属している教会は、神さまを礼拝し、讃美し続けているのです。
ですから、何も心配はないのです。ひとりひとりの信仰を軽んじる
のではありませんが、教会に属している恵みの大きさをしっかりと
知って、喜ぶべきであります。
バルナバという人は、サウロが教会員になる手助けをしました。
私たちひとりひとりがバルナバのような働きをしたいと思います。
また、そのような働きを求められる時が、必ずあることを知って
おきたいのです。
平和を保ち、主の下で一致する。自分の欲望よりも主を畏れ、
主に従う。聖霊の慰めを受け、主の救いを深く味わい、伝道する。
そんな教会でありたいのです。